正体不明の音
こんにちは。
管理人のひかり@難聴者です😀
さて今日はこちら。
正体不明の音
タイトルの通り「正体不明の音」についてですが、これは難聴あるあるでしょうか。
時々、
これはなんの音だろう?
と戸惑う事があるのですが、私にとって一番頭を悩ませるのが、夜、突然聞こえる音です。
そして昼間、家に1人でいる時に聞こえる音。
もう夜なので、外はわりかし静かになっているはずなのに、「パン!」とか「ゴトッ」と聞こえたりする。
(※音を言葉に置き換えて表現する文言として、合っているかは定かではありません。)
あれはなんの音でしょうか?
今だに正体が分からないのです。
聞こえる家族に今の何の音?と聞くのですが、音には気づかないみたいで「?」って顔をされる。私ほど外部からの音に興味を持っていないようです。
どんな音がしたか説明を求められても、多分正確には聞き取れていないので説明もできず、多分こんな音、と伝えます。
健聴者の「聞き分ける」力とか、「音が鳴った方向を察知する」力とかが関係しているのでしょうか?大した音ではないとか、いつも鳴っている音なのか。
補聴器を通した音はそのまま入ってくるので、その都度耳に入る音をやかましく感じているだけなのでしょうか。
私は物心ついた時から補聴器のお世話になっているので、耳七不思議の一つになっています。
耳に入ってくる音を無かったことにできるなんて!と驚くばかり。
となると、夜中に聞こえる音もさほど聞こえる人には大した音ではないんかな。
気になります。
ホラー映画を観た時なんて最悪です!
一体何の音なんでしょう。
意外と、外で誰かが車のドアを閉める音だったりとか、そういった日常のごく一部の音かもしれないんだけど、夜に聞こえるとちょっと怖い。(どきどき)
それとも、まさかの空耳でしょうか???
音の正体がわかる時もある
それは。
家の中で鳴っている時計のアラーム。
冷蔵庫ドアが開いていて、エラー音が鳴っていた時。
換気扇が回しっぱなしだった時。
ずっと鳴っている音は一緒に聞けるので、正体を教えてもらえる。
それが分かった時は、ほっとします。笑
要は個を見るってことが結局大事
どうも、難聴主婦のひかりです。
きてくださってありがとうございます✨
難聴者=手話ではない
前回のブログでは、手話いいよ〜ってことを書いたのですが、今回は逆のことを書きます。
ん、どういうこと?
と思われたことでしょう。
それは、「難聴者=手話」ではないということ。
私の友人には難聴者が数人いるのですが、大人になるまで手話とは関わりなく過ごしてきて、社会人になってから、「手話と出会って人生変わった!」という難聴者が多い。
でも同時に、「手話をちょっとかじってはみるけど、それほどのめり込まない」難聴者もいます。
あるいは、「あまり手話に興味がない」という難聴者も。
手話と出会って人生変わった!と喜ぶ難聴者は、ほとんどの方が、コミュニケーションが取れない苦労をしている。そしてどこかで我慢、諦め、受け入れている、そんな人です。
(もちろんひとくくりにはできませんが、少なくとも私の周りではそういう人が多いです。)
手話と出会って人生変わった難聴者
難聴者の数は健常者と比べてとても少ない。
だから必然的に、学生時代のクラスメイトの中で聞こえない人は自分1人だけだったりします。
どんなに優しい人に囲まれていても、コミュニケーションの壁は必ず立ち塞がります。
そうした環境で、難聴者は我慢、諦め、対処方法を考える、そして時間は本当にかかるけどそういった自分の環境を受け入れるようになります。
そして、自分なりの周りとの関わり方を確立していきます。
そうして過ごしてきて、社会人(社会人にはこだわりません。)になってから手話と出会い、コミュニケーションの壁が一気に取り払われるのです。
目から鱗が何枚も剥がれ落ちて、こんな世界があるのかと感動するのです。
それでも最初は、手話ができないので必死に習得しようとサークルなり手話講座なりに通い詰めます。
だんだん手話で会話ができるようになってきて、楽しくなり、みんなで集まって、どうでも良いような会話ができる楽しみを実感していく。
これはもう、人生変わるほどの衝撃と喜びです。
人との関わりがこんなに楽しいとは!
今までは周りのそうした姿を内心羨ましく思っていたけど、そんな自分を哀れに思いたくなくて受け入れていると強がって、ニコニコとしながら「自分は自分」よ、と過ごしてきた。
そんな難聴者は、手話と出会ってから心にかけていた鍵が一気に剥がれてしまいます。
そうした彼らは、どんどん明るくなって、この人にこんな一面もあったのかと驚くこともありました。
では逆に「手話をちょっとかじってはみるけどそれほどのめり込まない難聴者」はどうなのか。
手話をちょっとかじってはみるけど、それほどのめり込まない難聴者
コミュニケーションの壁はもちろんあるのだけど、そういった自分を悲観していない人が多いです。
夢中になるものが他にあって、そちらに気持ちが向いている人。
(何度でも言いますが、私の友人知人の範囲で書いていますので、全ての難聴者がこれに当てはまるわけではありません。)
話を戻して、例を出しますね。
ある男性難聴者Aさん
Aさんはマラソンが好きな人で、毎日のランニングが日課。
学校でも陸上部に入り長距離の部に所属。
マラソンの話ならなんでも大好きで話題に困ることはないため、マラソンに関する知識のカバーもあって健常者との会話もわりとスムーズに。
(難聴者は、知らない話題ほど聞き取りが難しいのです。)
健常者の友人・仲間も、同じマラソン好き同士なので、一緒に大会に参加したり練習に励んだりして、十分に楽しい交流ができている。
社会人になってからもそういった交流が続いています。
ある女性難聴者Bさん
Bさんはイラストレーターを目指し、学校では美術クラブに入会して、毎日腕を磨いています。
友人は多くないけど、好きな絵で頭は埋め尽くされています。
そんなBさんのイラストを好きだと言ってくれる人にも時々出会い、少しづつではあるけど知り合いは増えてきているようです。
最近は、デジタルイラストも取り入れて、SNSで投稿したりし、その輪は広がってきています。友人は多くないが、不満はありません。
ある日手話に出会い、少し覚えて交流の輪は広がるが、自分の軸であるメインはやっぱり「絵」なのです。
このようにAさんもBさんも、同じ好きを持つ人に恵まれて、多少聞こえの障害はあってもそれなりに楽しく過ごせているのです。
なにより、好きなものを楽しむのに聞こえるも聞こえないも関係ないですね。好きが大きすぎて。
そして次はCさんですが、彼女の場合は違います。
ある女性難聴者Cさん
自分が障害者であることを受け入れていません。
手話=障害者
この式を頭から取り外すことができないので、手話は自分とは無関係と思っている。
どうですか。
手話ひとつとっても、いろんな捉え方がされていることがわかります。
それとは別に、AさんやBさんのように自分の軸が別にありながらも、手話にものめり込み両方で活躍しているパワフルな難聴者もいます。
要は、タイトルの通り結局は、個を見ることが大事なんですね。
難聴者=手話ではないということ。
※上にあげた難聴者は、あくまでも一例です。
聞こえのレベル、置かれている環境、いろいろな条件で多岐にわたりますので。
ひかりの編集後記
ここまで書いていて、もし自分に難聴の子供が産まれたら…と思い耽った。
もし自分の子供が難聴だったら、好きなことを思いっきりやらせてあげた方が良いかもなーって。
そしたら親として全力でそれを応援したいと思う。
でもそれって、難聴があろうとなかろうと同じですね。
手話知っとくと、堂々と内緒のお話ができるんですよ
あんまり褒められたタイトルじゃないかも知れないけど、これが結構楽しいんですw
私の実体験なんだけど、職場には私1人が難聴者でした。
でもある同僚が手話に興味を持って、簡単な手話を教えて欲しいと請われて覚えてもらいました。
興味があるからかどんどん吸収して、本当に簡単な日常会話はできるようになってしまいました。すごいです。
そしたら楽しみが増えました。
そう。
内緒ばなし!
バレない悪戯をしているようで楽しかったーw
いわゆる、噂話とかを「ひそひそ」で会話するんじゃなくて、声を出さないようにして手話だけで「ひそひそ手話」をするんです。
手話ができる人は少ないので、何を話しているか分からないんですよ。(←いいのか、私?)
かといって、堂々としすぎるのも手話が目立って、「仕事しろ」って怒られちゃいますので、こっそりですが、何を話してるかはバレないんです♡
それが楽しくて、その同僚もどんどん手話に磨きがかかって。
表情が上手に出るようになって、そしたら今度はその表情で、「ろくなこと話してないわね」っていうのは周りにバレるようになって。
(手話をやる上で、表情での表現はとても大事なんです)
いや、楽しかったねー♪
このやり方、色々な場面で役に立ちますよ。例えば・・・
- ダイビング中(海の中で)
- 窓の向こうの人と(車とかバスとか)
- 図書館(動きがやかましいとやはり注意されるので、手話は小さめに)
- 大声じゃないと聞こえない距離でも、相手の顔は見える距離にいる時
- すごくやかましくて相手の声が聞こえない場所にいる時
こう言う場面で、手話で会話して意思疎通をスムーズに図れた時にはもう、やったね!とガッツボーズです。
手話、便利ですよ〜。
音声を文字化する
ずっと昔から欲しかったもの
それは周りの人の声を文字化する機械。
補聴器は幼い頃から付けていたのですが、それでも聞き取る力は50%くらいだと私は感じていた。
それでいつも思っていた。
あー、文字にしてくれる機械があればなあ、と。
あれから数十年経って、今ではスマホのアプリなどで簡単に文字化するものがいくつかある。
なんて便利な世の中になってきているんだろうと常々思う。
私が使っている文字化アプリ
さて。いくつかのアプリを試して、1つに落ち着きました。
それがこれ。
UDトーク
知る人ぞ知る文字変換アプリです。
[http://
:embed:cite]
人が多くて、周りが賑やかすぎる場合、早口で喋る人を相手にすると、ちょっと聞き取りはできない。
それなりに静かな場所や、機械に合わせてゆっくり目で喋ることができる相手であれば、かなり役立ってくれます。
なにより、言わずとも耳が聞こえないことをさりげなくアピールできて、それなりの対応を相手が自然としてくれる確率が上がる。
ただし、zoomなどオンラインでの会話はかなり弱い。
そっちはチャット機能があるので、大事なところや知りたいところはチャットでお願いしたりしている。
便利なものは享受して、どんどん使っていけばいいと思う。
私だけ聞こえなくて、生きにくい。
まずある難聴者の日常を。
軽度難聴者の女性です。
仕事は接客業。受付をしています。
とても忙しい職場だけど、やりがいはあるので頑張って仕事をしています。
彼女は努力家で勉強も怠りません。職業に有利な資格も勤務しながら取得しています。
聞こえないから仕事ができないと、思われたくないようです。
それなりのプライドも持っています。
職場の人のとコミュニケーションは一見普通に取れています。
手話はなく、健常者と変わらない様子。
忙しい時期、同僚が、他に電話を取れる人がいないとき、近くにいた難聴の彼女に頼みました。
他に電話に出られる人がいなかったので、待たせてはいけないと彼女は電話を取ります。
相手の声は、聞きやすい話し方をする人だったので、なんとか取り次ぐことができました。
それを見た同僚は、電話ができるんだと驚きますが、これからは彼女にも電話を取るようにお願いします。
たまたま聞きやすい声の人だったので、今回は大丈夫でしたが、聞きにくい人に当たったら会話が成り立ちません。
彼女は断りますが、聞きにくい人だったら代わってあげるからと同僚は頼みます。
とても忙しい職場なので、自分だけ電話を取らないのは悪いと思った彼女は、了承します。
しかし、代わって欲しい時に必ず人がいるとは限りませんよね。
彼女は電話を取るたびにビクビクして、ストレスを溜めていく毎日になりました。
(これは、彼女の日常生活で、ほんの一例です。)
どうしたらいいの?
一見聞くと、断れば良くない?って思うんですよね。
でも自分が他の人よりできないことがある分、同僚に負担をかけると考えてしまう難聴者もいるのです。特に軽度の難聴者は。
広く考えると、結果的にお客様に迷惑をかけるんだから、聞こえづらい相手に当たる可能性もあるなら、キッパリと断り、他の仕事で頑張る方が正解だと思うんだけどね。
彼女曰く、「全く聞こえないわけじゃないから」だそうです。
この場合、職場が聞こえのことをもう少し理解していたら、仕事の責任を持ってもっと上手くやってくれたんじゃないかなと思う。
でも、人は聞こえない人と関わる事自体が多くはないので、知らないんですよね。
そこで難聴者自身が、「却って迷惑をかけるので、電話以外で頑張らせていただきます!」とでも言えればいいんだけど、迷惑かけちゃうから、忙しそうだから、全く電話できないわけじゃないから、など理由をつけて無理をしてしまう。
どんな人が生きにくいのか?
自分軸で生きるか。
他人軸で生きるか。
これかなと思います。
(本記事は、難聴者をテーマにしたブログなので、それ含みで書いています。)
何も自分勝手に生きるという意味ではなく。
他人軸で生きていると、周りに振り回されていくので大変ストレスが溜まります。
ストレスが溜まっていくのに、人の顔色や言動、環境に合わせてしまう。
疲れているのにもっともっと自分が努力しなくちゃと頑張ってしまう。
私の友人が、他人軸で生きている人で、よく話をするたびに辛くなる。
こうしてみたら?
上司に話してみたら?
そう言っても、長年他人軸で生きてきて、しみついた考え方や感じ方を変えるのは簡単じゃないんだなと思います。
今は聴覚障害者も、SNSやYouTubeなどで発信をしている人も増えてきて、だんだんグローバル化してきていますね。
私たち難聴者も聞こえないことを堂々と表現し、健常者に対して「聞こえない人と接する機会を提供しているんだ」くらいの気持ちで人と関わって行ってもいいなと思います。
とりあえず一回、難聴者が集まる場に参加してみませんか?
あなたに似た人もいるし、いろいろな人がいます。
聞こえない人ってこんなにいるの?! とびっくりするかも知れません。
でもいい影響は受けられると思いますよ。
時間はかかっても、良い方に向けばいいなと思います。
ちなみに今、その難聴の女性は手話サークルに通い始めました。
今、毎週通っているようです。
手話よりも、交流を楽しんでいるようですが、今度は、「私は聞こえないんだから手話を覚えなくちゃ」と頑張っている。
おいおい、友人よ。
「しなくちゃ」じゃなくて、楽しんでくださいよ。
本当に身に染み付いた考え方捉え方というのは、しつこいですね。
どうか、楽しめるようになりますように。
耳が聞こえない人って、どうして発音がバラバラなの?
タイトルの通り、昔ずっと不思議に思っていることがあった。
「難聴者って全く聞こえないわけじゃないのに、なんで発音がキレイじゃないんだろう?」
そう思っていた。
私は、通常は健常者に囲まれて生きている。
ごくたまに難聴者やろう者に会うこともあるけど、いつもは健常者のみである。
難聴者って、耳だけで聞くことは難しいけど。
- 補聴器
- 口話(口の形を読んで内容を理解する)
(もちろん個人差はあるけど)主にこれらの助けを得ながら、日常で会話をしたりしている。
私も、人の声を聞いて、自分の声も自分の耳と補聴器で聞きながら話している。
それなのに発音が不鮮明。
聴覚に障害があると、正確に発音することが難しい。
でも当人は、自分の声を聞きながら話しているわけよ。
わざと不鮮明な発音をしているわけじゃないのよ。
それなのにどうして、綺麗に発音できていないんだろう?
と不思議だった。
聞こえないといっても、補聴器を通して周りの人の声と同じように、自分の声も発声しているつもりなのに。
でも難聴者同士で会話すると、発音が健常者とは違うなと気づく。
やっぱり明らかに、健常者のようには話せていない。
と言うことは、私の声も他の難聴者の耳には違和感を感じるのだろうと考えたこともある。
どうしてそうなるんだろうと思っていた。
それに対して、納得できる答えを得る機会があった。
ある聴覚障害者関連の活動をしている人に、そんな話をしたの。
その彼が言うには、「聞こえていないから。」だと。
聞こえていないのは分かっているよ!
そう思ったね。
でもよくよく聞いてみると違ったの。
普段自分が思っている「聞こえない」と彼の言う「聞こえない」の意味が違っていた。
どう言うことかと混乱したけど、教えてくれた。
例えばある難聴者は母を呼ぶ時に、
「おかあさん」ではなく「おああさん。」
と発音している。
そう。不鮮明な発音になってしまう。
「おああさん。」確かに聴覚障害者の発音って感じね、と思った。
どう言うことかと言うと、その難聴者は、「K」の部分が聞こえない。
つまり、OKAASAN(おかあさん)ではなく「K」が聞こえないから、「O?AASAN」になる。
と言うのだ。
だからその難聴者は、健常者の声も「おかあさん」と聞いているつもりが、「おああさん」と聞こえている。
その上で、健常者と同じように「おかあさん」と発言しているつもりなのだ。
ということらしい。ちょっとややこしいね。
でも、ストンと胸に落ちたの。
ああ、そういうことなのか、と。
これは指摘されないと、わからないわと。
すごく納得したの。
ある日テレビで、色盲の障害を持つ人のドキュメント番組をみた時。
「本当の色は多分分かっていないんだけど、僕にはその色が赤なんだ。」
って言ってたの。
あ。
こう言うことか。
って気づきを得た。
聞こえないって、単純に音が小さかったり、聞きづらかったりとかで締め括ることはできないんだなって。
聞き間違いあるある。
「難聴あるある」の一つ。それは、聞き間違いです。
今日も子供との会話で、あるある、聞き間違いが発生して大笑いされました。
その会話です。↓↓↓
子供「今日の夜ご飯、リクエストがあるんだけど。」
ひかり「ん?何がいい?」
子供「しらたま」
ひかり「えっ? 白玉??」
さてここでクイズです!
Q
子供は、母に夕食のリクエストをしました。
難聴のひかりさんには、「しらたま」と聞こえました。
本当は何と言ったのでしょうか?
(ヒントは、「しらたま」と口の形が似ているものです。)
・・・・・
・・・・
・・・
・・
・
・
・
・
・
・
・
正解は・・・
にらたま、でした。
ニラ玉美味しいですよね。子供の好きな食べ物のひとつです。
しらたまと聞こえて言い返すと、「なんで夜ご飯に白玉なんや」と笑われます。
あー、今日も笑った笑った。