ひかりさんは聞こえない

主婦。そして難聴者。

要は個を見るってことが結局大事

どうも、難聴主婦のひかりです。
きてくださってありがとうございます✨

難聴者=手話ではない

前回のブログでは、手話いいよ〜ってことを書いたのですが、今回は逆のことを書きます。

ん、どういうこと?
と思われたことでしょう。

それは、「難聴者=手話」ではないということ。

私の友人には難聴者が数人いるのですが、大人になるまで手話とは関わりなく過ごしてきて、社会人になってから、「手話と出会って人生変わった!」という難聴者が多い。
でも同時に、「手話をちょっとかじってはみるけど、それほどのめり込まない」難聴者もいます。
あるいは、「あまり手話に興味がない」という難聴者も。

手話と出会って人生変わった!と喜ぶ難聴者は、ほとんどの方が、コミュニケーションが取れない苦労をしている。そしてどこかで我慢、諦め、受け入れている、そんな人です。

(もちろんひとくくりにはできませんが、少なくとも私の周りではそういう人が多いです。)

手話と出会って人生変わった難聴者

難聴者の数は健常者と比べてとても少ない。
だから必然的に、学生時代のクラスメイトの中で聞こえない人は自分1人だけだったりします。
どんなに優しい人に囲まれていても、コミュニケーションの壁は必ず立ち塞がります。

そうした環境で、難聴者は我慢、諦め、対処方法を考える、そして時間は本当にかかるけどそういった自分の環境を受け入れるようになります。

そして、自分なりの周りとの関わり方を確立していきます。

そうして過ごしてきて、社会人(社会人にはこだわりません。)になってから手話と出会い、コミュニケーションの壁が一気に取り払われるのです。

目から鱗が何枚も剥がれ落ちて、こんな世界があるのかと感動するのです。

それでも最初は、手話ができないので必死に習得しようとサークルなり手話講座なりに通い詰めます。
だんだん手話で会話ができるようになってきて、楽しくなり、みんなで集まって、どうでも良いような会話ができる楽しみを実感していく。

これはもう、人生変わるほどの衝撃と喜びです。

人との関わりがこんなに楽しいとは!

今までは周りのそうした姿を内心羨ましく思っていたけど、そんな自分を哀れに思いたくなくて受け入れていると強がって、ニコニコとしながら「自分は自分」よ、と過ごしてきた。
そんな難聴者は、手話と出会ってから心にかけていた鍵が一気に剥がれてしまいます。

そうした彼らは、どんどん明るくなって、この人にこんな一面もあったのかと驚くこともありました。

では逆に「手話をちょっとかじってはみるけどそれほどのめり込まない難聴者」はどうなのか。

手話をちょっとかじってはみるけど、それほどのめり込まない難聴者

コミュニケーションの壁はもちろんあるのだけど、そういった自分を悲観していない人が多いです。
夢中になるものが他にあって、そちらに気持ちが向いている人。

(何度でも言いますが、私の友人知人の範囲で書いていますので、全ての難聴者がこれに当てはまるわけではありません。)

話を戻して、例を出しますね。

ある男性難聴者Aさん

Aさんはマラソンが好きな人で、毎日のランニングが日課
学校でも陸上部に入り長距離の部に所属。
ラソンの話ならなんでも大好きで話題に困ることはないため、マラソンに関する知識のカバーもあって健常者との会話もわりとスムーズに。
(難聴者は、知らない話題ほど聞き取りが難しいのです。)
健常者の友人・仲間も、同じマラソン好き同士なので、一緒に大会に参加したり練習に励んだりして、十分に楽しい交流ができている。
社会人になってからもそういった交流が続いています。

ある女性難聴者Bさん

Bさんはイラストレーターを目指し、学校では美術クラブに入会して、毎日腕を磨いています。
友人は多くないけど、好きな絵で頭は埋め尽くされています。
そんなBさんのイラストを好きだと言ってくれる人にも時々出会い、少しづつではあるけど知り合いは増えてきているようです。
最近は、デジタルイラストも取り入れて、SNSで投稿したりし、その輪は広がってきています。友人は多くないが、不満はありません。
ある日手話に出会い、少し覚えて交流の輪は広がるが、自分の軸であるメインはやっぱり「絵」なのです。

このようにAさんもBさんも、同じ好きを持つ人に恵まれて、多少聞こえの障害はあってもそれなりに楽しく過ごせているのです。
なにより、好きなものを楽しむのに聞こえるも聞こえないも関係ないですね。好きが大きすぎて。
そして次はCさんですが、彼女の場合は違います。

ある女性難聴者Cさん

自分が障害者であることを受け入れていません。
手話=障害者
この式を頭から取り外すことができないので、手話は自分とは無関係と思っている。

どうですか。
手話ひとつとっても、いろんな捉え方がされていることがわかります。

それとは別に、AさんやBさんのように自分の軸が別にありながらも、手話にものめり込み両方で活躍しているパワフルな難聴者もいます。

要は、タイトルの通り結局は、個を見ることが大事なんですね。
難聴者=手話ではないということ。


※上にあげた難聴者は、あくまでも一例です。
聞こえのレベル、置かれている環境、いろいろな条件で多岐にわたりますので。

ひかりの編集後記

ここまで書いていて、もし自分に難聴の子供が産まれたら…と思い耽った。

もし自分の子供が難聴だったら、好きなことを思いっきりやらせてあげた方が良いかもなーって。
そしたら親として全力でそれを応援したいと思う。

でもそれって、難聴があろうとなかろうと同じですね。